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2018.03.25 Sunday

検視

今季初釣行。

 

惨敗でした。

 

でもこんなん発見。

 

 

大きなイワナの死骸。

 

 

頭の大きさからすれば40あっても不思議はない。

 

尻尾は丸いが成魚放流とは考えられない。

 

先ずは拾い上げて死因の推定。

 

 

何やら引っかき傷がある。

 

 

これも爪痕か?

 

上手く逃げることはできたが、その傷が致命傷になったようだ。

 

犯人は何だろう?

 

鋭い爪を持った動物。

 

クマではなさそう。

 

では?

 

体型から想像したのは、細い枝沢で育った個体。

 

しかも昨年に産卵したもの。

 

そのために尻尾が丸い。

 

だとすればメスだが、顔付きはオスだし。

 

ヤマトっぽいし。

 

いろいろ考えながら、この谷の奥が気になってきた。

 

今シーズンの宿題だ。

 

2018.03.21 Wednesday

個展やるの?

冬の間に書き溜めた絵を選別した。

 

周りからそそのかされて?煽てられて?描いてきた。

 

試行錯誤を繰り返しながら自分なりに進化したと感じている。

 

 

気に入っている墨絵。

 

鮎だよ。一応。

 

 

皿の鮎はいろんなタッチで描いてみた。

 

 

焼き上がりを想像しながら適当に描く。

 

時々、神様が降臨なさる時がある。

 

筆が走らない日は描かないことだ。

 

 

これは最近のお気に入り。

 

この向きがいい。

 

 

どうせなら個展でもやろうかな?

 

浴衣プロジェクトはもう進行している。

 

T-シャツも手ぬぐいも検討中。

 

この夏も忙しくなりそう。

 

 

 

 

2018.02.21 Wednesday

仮説(続・謎の石組み)

駄知と曽木境に見つかった石組み。

 

 

これが仮にのろし台か簡単な砦であったとする。

 

では、いつの頃の物であろうか?

 

駄知が戦に巻き込まれたとすれば、岩村と明智が武田方に取られた時か、関ケ原の戦い時だと考えられる。

 

前者であれば天正二年(1574)に明智城が武田に落ちた頃だ。

 

武田に備えて小里に池田恒興を置いて城を修復させた。

 

その折に、小里城と妻木城のちょうど中間にあたる地点に砦を築いたとしても不思議はない。

 

明智から大川を抜け曽木経由で攻め込まれないためだ。

 

 

後者の関ケ原の戦いであっても、西軍についた岩村の田丸勢を同じように睨む必要があったと思う。

 

実際に、曽木で田丸勢と妻木勢は戦っている。

 

田丸に備え妻木城も修復されている。

 

(妻木城から東を望む)

 

当時、駄知はまだ妻木藩に属していたわけだから砦の存在は突飛なものではない。

 

この戦いに大川や水上の陶工たちも巻き込まれたはずである。

 

田丸に人質を要求されて逃げたとも考えられる。

 

駄知に陶から陶工が移住したのもその頃なのだ。

 

それが駄知移住の理由かもしれない。

 

当時、この辺りに潜んでいたはずの私のご先祖様もうまく立ち回ったのだろう。

 

そんなことを想像してしまった。

 

 

2018.02.06 Tuesday

謎の石組

地元の山を徘徊中に矢穴のある岩を発見。

 

 

周囲には同じような岩が散見された。

 

ここで切り出した岩はどこへ運んだんだろう。

 

そしていつ頃の物なんだろう?

 

 

矢穴の幅は5センチほどか?

 

この穴の時代がわかるとうれしいのだが。

 

どなたか詳しい方がいらっしゃたら教えてほしい。

 

山の上からなら下まで運ぶのはそんなに苦労はしないだろう。

 

そんなことを考えながら少し歩くと今度は石組みに出会った。

 

 

なんの遺構なのかまったくわからない。

 

 

何か所か点在していた。

 

こんなコッパの捨てた場所も発見。

 

 

どうやらここは石を加工した場所のようだ。

 

先ほどの岩をここまで運んだか?

 

じゃ何のために。

 

砦の址かと想像してみたらゾクゾクしてきた。

 

見渡せば、木々の枝が邪魔だが肥田の町まで見通せる。

 

 

この橋の向こう(北側)が肥田。

 

手前が駄知である。

 

さらに東を見やると、どうやら妻木の城山らしき山が覗けるではないか。

 

 

この写真を撮った尾根筋の下で、細野から駄知へ通じる道と大平からの道が交わる。

 

ここに砦があっても不思議ではない。

 

 

平場もあるし益々怪しい。

 

帰宅後にグーグルアースで場所を確認してみた。

 

 

樹が茂っていなければ、おそらく見通せると思う。

 

後日に検証してみよう。

 

実は、駄知から曽木へ抜ける途中の地名は「城が根」なのだ。

 

城の麓という意味のはずだ。

 

どこかに砦があったんだろうと想像するだけだったが、好奇心がメラメラと湧いてきた。

 

キノコ探しならぬ砦探しをせねばならなくなった。

2018.01.29 Monday

偶然?

以前も書いたが陶で焼いた器が気になって仕方ない。

 

骨董市で買った天目。

 

 

大川か田の尻で焼かれたものだろうと思い込んでしまった。

 

そんなに高いものではないし形も悪くないので気に入っている。

 

真贋より産地に興味があるのだ。

 

先日面白いことがあった。

 

陶で拾ったというエンゴロを植木鉢にしている方がいたのだ。

 

早速見せてもらった。

 

 

独特の底の造り。

 

天目のかけらがくっついている。

 

明らかに天目を焼いた鞘だ。

 

そこで私の茶碗を入れてみると

 

 

上手く収まった。

 

やっぱり、陶のものなんだろうか?

 

本題は私の道楽ではなく、信長の館の天目の産地なんだが。

2018.01.18 Thursday

続 状況証拠

 

武田を睨みながら窯を焼いていたのは誰なのか?

 

いろんな文献等で調べると加藤万右衛門尉基範なる陶工にたどり着いた。

 

この基範さんは永禄6年(1563年)12月に信長の朱印状を持って瀬戸より来るとある。

 

彼は水上に窯を築き中馬街道の整備をしたということだ。

 

中馬街道が軍事道路でもあったのだと考えれば私の愚説も満更ではないだろう。

 

大川には15世紀にすでに加藤左衛門尉景信が武蔵の国から来て窯を築いたと古文書も残るそうだ。

 

ただし、その時代の窯跡は発見されていないので記述には脚色がしてあるのかもしれない。

 

それでも景信さんと基範さんは近い関係だったと想像している。

 

 

これは大川の風景。

 

 

この写真載せたほうがわかり易いだろう。

 

では、彼らは何を焼いていたのか?

 

信長の時代はまだ登り窯はなく大窯の時代だ。

 

古瀬戸系の灰釉や鉄釉中心だと思われる。

 

志野はあったとしてもまだ長石釉の初期の物のはず。

 

そんなことを推理していたところ面白い物を見つけた。

 

 

私はこれらの破片を見て大川や水上の窯の物ではと思わずにはいられない。

 

外れたとしても美濃物には違いない。

 

実はこれらの陶器は岐阜の金華山の信長の館の跡から発掘された物なのだ。

 

信長の岐阜時代は短いので大変貴重な資料なのだ。

 

これらの陶器を精査して産地が分かればと思うとゾクゾクする。

 

もしこれらが大川や水上、田の尻の窯の物であれば私の説は裏付けられるはずだ。

 

残念ながら、今年度の公開は終了している。

 

次回には必ず現物を見てみたい。

 

専門家の御意見も聞きたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.01.17 Wednesday

状況証拠

久しぶりに歴史の話。

 

今、気になって仕方ないのが陶の窯のこと。

 

 

武田勢が岩村城や明智城を支配した頃。

 

織田と武田の軍事境界線はおそらく現在の恵那市明智町と瑞浪市陶町の境辺りか?

 

であれば、当時の大川村や水上村は最前線の近くだ。

 

 

そんな物騒な場所にわざわざ瀬戸の陶工が移動してくるのは不自然だ。

 

もともと「瀬戸山離散」は戦火を逃れて美濃へ逃げたと云われているのだ。

 

確かに陶の辺りは良い土があり陶器づくりには向いている。

 

だが、美濃にはそんな場所はいくらでもあるのだ。

 

では何故そこにいたのか。

 

彼らは国境警備の役目を負っていたからだ。

 

陶工は土を探したり燃料の薪を調達するために山に入る。

 

普段は斥候の役目を果たしたし、有事の際は道案内や伝令として働いたことだろう。

 

商人とのやり取りの中で諜報活動も重要な任務だったと想像している。

 

(忍者で有名な伊賀や甲賀も陶産地だ。美濃者がいても不思議ではない。)

 

彼らに与えた信長の朱印状は裏返せば指令書でもあったと思う。

 

当時岩村攻めを担っていたのが信忠だ。

 

すなわちその部下である小太膳の息のかかった陶工集団がいたことは容易に想像できる。

 

状況証拠に過ぎないが大きな手掛かりだ。

 

小太膳の息子彦左衛門が駄知に住み着き陶器を焼いたのもうなずけるのだ。

 

続く。

 

 

 

2018.01.12 Friday

鮎皿

明けましておめでとうございます。

 

年末年始は風邪でダウン。

 

その間、鮎の描き方をいろいろ考えていた。

 

仕事始めに早速試してみた。

 

 

追星を表現するために呉須を描き落とした。

 

口も削ってみた。

 

悪くない。

 

 

これはまだ口を削る前だ。

 

焼き上がりを想像しながら描くのだが、いつもうまくいくとは限らない。

 

 

ムラができてしまった鮎。

 

描いた時は期待したのだが。

 

でも悪くない。

 

 

↓はうまくいった。

 

 

でも、この絵を見ながら感じた。

 

洗練されてきたけどパンチがない。

 

 

このほうが元気があっていいかな?

 

あまり優等生よりちょっとヤンチャなほうが好き。

 

栽培物の野菜よりあくの強い山菜でいたい。

 

 

2017.12.29 Friday

2017を振り返る

今年を振り返ってみた。

 

まずは駄知土瓶の里帰りだ。

 

ネットで偶然見つけたこの土瓶。

 

 

貴重な白土瓶。

 

 

ご先祖様が造っていたものに違いない。

 

未だ興奮冷めやらず。

 

 

春には、息子が彦根に住むことになった。

 

 

この地に縁ができた。

 

弟は剣道と塾で忙しく釣りに行く機会が減った。

 

 

剣道はよくなったが欲がない。

 

 

これは息子が釣ったアマゴ。

 

 

感動の美しさだった。

 

私が釣った物ではこれが印象に残る。

 

 

こんな写真も撮れた。

 

 

でも大物には見捨てられた一年だった。

 

キノコも不作。

 

マツタケは一本のみ。

 

それでもマイタケを拝むことができラッキーだった。

 

 

魚の絵が進化した一年でもあった。

 

 

皆に煽てられて洗練されていった気がする。

 

 

さらに悪ノリして

 

 

手拭を作ってしまった。

 

さらにさらに

 

 

浴衣まで作ってしまった。

 

ブタも煽てりゃ木に登る一年でした。

 

来年も遊びます。

 

皆さん よいお年を。

 

2017.12.19 Tuesday

シラハエの味

私の育った土岐川流域で最もポピュラーな魚がシラハエだ。

 

オイカワの地方名だが、ハヨとかハエとも云う。

 

長良川の中流域では、寒の時期に群れるシラハエをイカダバエと呼んでいるようだ。

 

 

そんなイカダバエの佃煮をいただいた。

 

 

身近な魚だが最近は口にしていない。

 

久しぶりに食べるとなぜか懐かしい味であった。

 

ガキの頃、夢中になって追いかけた魚だ。

 

釣りはもちろん網や手づかみまでしたものだ。

 

たくさん獲って帰ると家人が喜んでくれた。

 

それが子供の頃の魚獲りのモチベーションになっていた。

 

それを母が煮てくれた。

 

そんな味を思い出していた。

 

 

冒頭の写真は最近の土岐川のもの。

 

魚は確実に増えている。

 

だが、近年シラハエ釣りをやる人はほぼ絶滅した。

 

子供たちが初めて釣りを体験するのが大抵この魚であったはずだ。

 

今は、ブラックバスか管釣りのニジマスなんだろうな。

 

シラハエ釣りの風流さを思い出しながら描いてみた。

 

 

沁みついた記憶は何も見ないでもスラスラと筆を走らせてくれた。

 

来季はちょっと釣ってみようかな。

 

キャッチ&ストマックでね。

 

 

 

 

 

 

 

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