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2020.06.15 Monday

駄知の由来

広報ときに面白い記事が載っていた。

 

https://www.city.toki.lg.jp/fs/2/4/8/9/0/1/_/17.pdf

 

 

今話題の「麒麟が来る」の明智光秀に関連した話題だ。

 

明智の里は一体どこにあったのか?

 

それに一石を投じる説だ。

 

駄知はよくない土地で、明智はよい土地という説だ。

 

確かに妻木=明智ならば、妻木下石は開けたいい土地だ。

 

一方、盆地で狭い土地の駄知は、農業には向かないダメな土地だ。

 

曾祖父の説は駄賃取りが住んでいたので、駄賃が駄知になったのではと言っていた。

 

これは江戸時代より前からあった呼び名なので、ちょっと違うようだ。

 

しかし、今度の新説には妙に納得してしまった。

 

これからの研究成果を待とう。

 

 

2020.02.11 Tuesday

なんの遺構だろう?

駄知から細野へ抜ける旧道がある。

 

天狗沢と呼ばれる山の中の寂しい場所だ。

 

沢沿いに南へ向かう。

 

昔は、左へ行くと曽木細野方面、右へ行くと妻木の大平へ抜けていた山道だ。

 

ちょうどこの分岐付近から東側の尾根筋に面白いものを発見。

 

 

以前にも紹介した石組みだ。

 

 

道からこんな急な斜面を登ることになる。

 

頂上手前で石組みに出会うことになる。

 

 

 

こんな大木が隙間から生えているので百年ぐらい前かそれ以上であるはずだ。

 

付近には多くはないが、花崗岩が転がっている。

 

それを利用したであろうことは理解できる。

 

最初に考えたのは、やはり砦では?ということ。

 

ここは駄知から肥田まで見通せる。

 

 

西へ目をやると妻木の城山が望める場所だからだ。

 

 

この場所が戦に巻き込まれたのは、岩村城と明智城が武田方に落ちた時。

 

あるいは、関ヶ原の前哨戦で妻木氏と岩村の田丸氏の戦いだと考えている。

 

前者であれば、ここは小里城の脇を監視する役目なら説明がつく。

 

後者にしても東からくる敵に備えたとすれば合理的だ。

 

そうなれば、時代を突き止める証拠が欲しかった。

 

そこで矢穴の調査が役立たないかと思ったわけだ。

 

 

小里城のものと明らかに違う大きさだった。

 

自分の仮設は照明できなかった。

 

では、これは何?

 

石切り場の遺構?木を伐りだすためのもの?

 

はたまた陶器の原料の採掘跡?

 

そんなことを考えながら遺構沿いの道らしき道を下ってみた。

 

 

周りに花崗岩がない場所では付近の石が利用してあった。

 

 

何かを運び出した痕のようだ。

 

これをたどって降りると平地に出た。

 

 

今は草が生えて荒れているが家が建つぐらいの広さがある。

 

人がいた痕跡ではあるが時代や役目はわからずじまい。

 

謎のまま、調査終了。

 

 

2019.04.19 Friday

言い伝えは本当だった。

朝から興奮している。

 

仕事に手がつかないので、とりあえずブログにて報告します。

 

我々の先祖の言い伝えが証明される出来事が起きたのだ。

 

駄知の陶祖の一人「喜助」の碑に拠ると「森向戸の川底で陶土を発見して陶器づくりを創めた」とある。

 

 

森向戸の地名は今は使われていないが、本郷橋の下流の左岸側のことだ。

 

喜助が先祖を祀って五輪を建てたという言い伝えから「五輪」の地名がある場所だ。

 

そこで河川工事が始まった。

 

 

工事屋さんに「ひょっとして粘土が出たら教えて」と伝えていた。

 

すると、今朝突然の連絡。

 

駆けつけると間違いなく陶土だ。

 

わざわざ、工事を中断して待っていてくれた。

 

 

一掬いしてもらった。

 

手に取ってみると可塑性は十分で単味でもロクロが挽けそうだ。

 

 

おそらくこれが喜助が見つけた土と同じものだと思うと鳥肌が立った。

 

工事の邪魔にならないように少しだけいただいてきた。

 

 

奥の山の中腹に喜助の墓はある。

 

どんな気持ちで眺めてござるかな?

 

ひょんなことから言い伝えが本当だったことが証明された。

 

近々執り行われる先祖祀には、この土をお供えしようと思う。

2018.05.05 Saturday

城が根の砦跡探索

意外な場所に城が根の砦はあった。

 

すでに山城研究家の熊澤さんという方が調査されていた。

 

その資料をいただいたのでGWに早速探索に入った。

 

 

この写真の道の上だ。

 

駄知から曾木へ向かう道の途中だ。

 

まさに城が根の地名の場所にあった。

 

 

資料を頼りに大手道(と言ってもほぼ獣道)を登る。

 

少し登ると

 

 

何やら道らしきものが出てきた。

 

武者走りのようだ。

 

ここを歩く者はほぼいないのでやはり遺構なのだろう。

 

 

尾根筋は歩きやすかった。

 

曲輪の址か?

 

 

武者走りを逆から写してみた。

 

期待していた石垣は全くない。

 

 

さらに進む。

 

 

曲輪の址なのかよくわからない。

 

 

そして、堀切の址に出た。

 

これは人造のものとすぐわかった。

 

資料によればもう一つあるはず。

 

 

これだろう。

 

この先尾根は急な登りになった。

 

搦手の道だろう。

 

それはずっと先には小里へ抜ける間道につながる。

 

探索を終えて命がけの急斜面を下ると明治の遺構発見。

 

 

さらに

 

 

充填場の横の沢に出てこんな滝があったことに驚いた。

 

ここはお泳いだことがある。

 

時間にして小一時間野探索だった。

 

何も知らずにこの下を何十年と通っていたとは。

 

 

2018.02.21 Wednesday

仮説(続・謎の石組み)

駄知と曽木境に見つかった石組み。

 

 

これが仮にのろし台か簡単な砦であったとする。

 

では、いつの頃の物であろうか?

 

駄知が戦に巻き込まれたとすれば、岩村と明智が武田方に取られた時か、関ケ原の戦い時だと考えられる。

 

前者であれば天正二年(1574)に明智城が武田に落ちた頃だ。

 

武田に備えて小里に池田恒興を置いて城を修復させた。

 

その折に、小里城と妻木城のちょうど中間にあたる地点に砦を築いたとしても不思議はない。

 

明智から大川を抜け曽木経由で攻め込まれないためだ。

 

 

後者の関ケ原の戦いであっても、西軍についた岩村の田丸勢を同じように睨む必要があったと思う。

 

実際に、曽木で田丸勢と妻木勢は戦っている。

 

田丸に備え妻木城も修復されている。

 

(妻木城から東を望む)

 

当時、駄知はまだ妻木藩に属していたわけだから砦の存在は突飛なものではない。

 

この戦いに大川や水上の陶工たちも巻き込まれたはずである。

 

田丸に人質を要求されて逃げたとも考えられる。

 

駄知に陶から陶工が移住したのもその頃なのだ。

 

それが駄知移住の理由かもしれない。

 

当時、この辺りに潜んでいたはずの私のご先祖様もうまく立ち回ったのだろう。

 

そんなことを想像してしまった。

 

 

2018.02.06 Tuesday

謎の石組

地元の山を徘徊中に矢穴のある岩を発見。

 

 

周囲には同じような岩が散見された。

 

ここで切り出した岩はどこへ運んだんだろう。

 

そしていつ頃の物なんだろう?

 

 

矢穴の幅は5センチほどか?

 

この穴の時代がわかるとうれしいのだが。

 

どなたか詳しい方がいらっしゃたら教えてほしい。

 

山の上からなら下まで運ぶのはそんなに苦労はしないだろう。

 

そんなことを考えながら少し歩くと今度は石組みに出会った。

 

 

なんの遺構なのかまったくわからない。

 

 

何か所か点在していた。

 

こんなコッパの捨てた場所も発見。

 

 

どうやらここは石を加工した場所のようだ。

 

先ほどの岩をここまで運んだか?

 

じゃ何のために。

 

砦の址かと想像してみたらゾクゾクしてきた。

 

見渡せば、木々の枝が邪魔だが肥田の町まで見通せる。

 

 

この橋の向こう(北側)が肥田。

 

手前が駄知である。

 

さらに東を見やると、どうやら妻木の城山らしき山が覗けるではないか。

 

 

この写真を撮った尾根筋の下で、細野から駄知へ通じる道と大平からの道が交わる。

 

ここに砦があっても不思議ではない。

 

 

平場もあるし益々怪しい。

 

帰宅後にグーグルアースで場所を確認してみた。

 

 

樹が茂っていなければ、おそらく見通せると思う。

 

後日に検証してみよう。

 

実は、駄知から曽木へ抜ける途中の地名は「城が根」なのだ。

 

城の麓という意味のはずだ。

 

どこかに砦があったんだろうと想像するだけだったが、好奇心がメラメラと湧いてきた。

 

キノコ探しならぬ砦探しをせねばならなくなった。

2018.01.18 Thursday

続 状況証拠

 

武田を睨みながら窯を焼いていたのは誰なのか?

 

いろんな文献等で調べると加藤万右衛門尉基範なる陶工にたどり着いた。

 

この基範さんは永禄6年(1563年)12月に信長の朱印状を持って瀬戸より来るとある。

 

彼は水上に窯を築き中馬街道の整備をしたということだ。

 

中馬街道が軍事道路でもあったのだと考えれば私の愚説も満更ではないだろう。

 

大川には15世紀にすでに加藤左衛門尉景信が武蔵の国から来て窯を築いたと古文書も残るそうだ。

 

ただし、その時代の窯跡は発見されていないので記述には脚色がしてあるのかもしれない。

 

それでも景信さんと基範さんは近い関係だったと想像している。

 

 

これは大川の風景。

 

 

この写真載せたほうがわかり易いだろう。

 

では、彼らは何を焼いていたのか?

 

信長の時代はまだ登り窯はなく大窯の時代だ。

 

古瀬戸系の灰釉や鉄釉中心だと思われる。

 

志野はあったとしてもまだ長石釉の初期の物のはず。

 

そんなことを推理していたところ面白い物を見つけた。

 

 

私はこれらの破片を見て大川や水上の窯の物ではと思わずにはいられない。

 

外れたとしても美濃物には違いない。

 

実はこれらの陶器は岐阜の金華山の信長の館の跡から発掘された物なのだ。

 

信長の岐阜時代は短いので大変貴重な資料なのだ。

 

これらの陶器を精査して産地が分かればと思うとゾクゾクする。

 

もしこれらが大川や水上、田の尻の窯の物であれば私の説は裏付けられるはずだ。

 

残念ながら、今年度の公開は終了している。

 

次回には必ず現物を見てみたい。

 

専門家の御意見も聞きたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.01.17 Wednesday

状況証拠

久しぶりに歴史の話。

 

今、気になって仕方ないのが陶の窯のこと。

 

 

武田勢が岩村城や明智城を支配した頃。

 

織田と武田の軍事境界線はおそらく現在の恵那市明智町と瑞浪市陶町の境辺りか?

 

であれば、当時の大川村や水上村は最前線の近くだ。

 

 

そんな物騒な場所にわざわざ瀬戸の陶工が移動してくるのは不自然だ。

 

もともと「瀬戸山離散」は戦火を逃れて美濃へ逃げたと云われているのだ。

 

確かに陶の辺りは良い土があり陶器づくりには向いている。

 

だが、美濃にはそんな場所はいくらでもあるのだ。

 

では何故そこにいたのか。

 

彼らは国境警備の役目を負っていたからだ。

 

陶工は土を探したり燃料の薪を調達するために山に入る。

 

普段は斥候の役目を果たしたし、有事の際は道案内や伝令として働いたことだろう。

 

商人とのやり取りの中で諜報活動も重要な任務だったと想像している。

 

(忍者で有名な伊賀や甲賀も陶産地だ。美濃者がいても不思議ではない。)

 

彼らに与えた信長の朱印状は裏返せば指令書でもあったと思う。

 

当時岩村攻めを担っていたのが信忠だ。

 

すなわちその部下である小太膳の息のかかった陶工集団がいたことは容易に想像できる。

 

状況証拠に過ぎないが大きな手掛かりだ。

 

小太膳の息子彦左衛門が駄知に住み着き陶器を焼いたのもうなずけるのだ。

 

続く。

 

 

 

2017.06.27 Tuesday

京都の旅 その二

縁を感じた京都の旅。

 

龍野藩の家臣団の墓の並びにこんなお墓があった。

 

 

上杉景勝の正室菊姫の墓であった。

 

菊姫?聞いたことがあるような?

 

調べてみると上杉景勝の正室でなんと武田信玄の娘ではないか。

 

以前ブログにも書いた信忠の許婚でもあった松姫の姉なのだ。

 

姉妹の人生は時代の波に翻弄されたものだった。

 

武田を滅ぼした戦いにも参戦していた小太膳。

 

その武田家の娘のお墓の傍らに眠っているとは。

 

いろんな因縁に思いを馳せる旅であった。

2017.06.25 Sunday

京都の旅 その一

 いろんな縁を感じた京都の旅だった。



きっかけは正蓮寺さんのおはからいであった。

 

初めて西本願寺に参拝させていただくことができた。

 

 

お寺と門徒さんのいい関係を垣間見ることができた。

 

小太膳と本願寺の関係にも思いを馳せながらお参りした。

 

この日は長年にわたり小太膳を追いかけていた岩利のMさんのお骨も納骨された。

 

これも縁である。

 

ここで正蓮寺の皆さんとお別れして次の目的地へ向かった。

 



ここは妙心寺の隣華院。

姫路の御当主A氏が案内してくださった。

 

小太膳は本能寺の変の後、紆余曲折を経て脇坂家に仕え晩年を京都で迎えたそうだ。

 

その墓は現在は龍野藩の家臣団の墓に合祀されている。

 

 

やっとたどり着いたという感慨が湧いてきた。

 

曾祖父から追いかけてきた一族の歴史の一区切り。

 

 

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